藤原秀郷(ひでさと)は、平安時代の中ごろに活躍した武将で、中世東国武士の祖とされています。平将門の乱を鎮圧したことをきっかけに、秀郷は歴史の表舞台に登場しました。
秀郷の子孫には平泉の奥州藤原氏や歌人・西行を生んだ紀伊佐藤氏をはじめ、下野でも小山氏・長沼氏(のち皆川氏)・佐野氏・小野寺氏などの有力武士団が生まれました。以上のように、全国に広がった秀郷流武士団はまさに源平と並ぶ名門武士団と称しても過言ではありません。
そして、武芸の開祖と仰がれた秀郷の勇猛な戦いぶりは、超人的な武芸によって内乱を鎮め、大ムカデを退治したという「俵藤太」伝説をはじめとして、多くの物語や絵巻物に取り上げられ、ひろく親しまれています。
現在、全国に200万人いる「佐藤」の名字は、藤原姓を起源とする説が有力。佐藤の名字が台頭した経緯については諸説ありますが、佐野には歴史上の偉人である藤原秀郷の居城があったため、下野国佐野の地名に由来し、佐野の藤原で「佐藤」とする説が有力とされています。
「むかで退治」の伝説でも名を知られる藤原秀郷(俵藤太)の子孫の佐野氏が築城した山城です。戦国時代末期の堅牢な高石垣が残る東日本では数少ない城跡です。秀郷公が祀られた唐澤山神社がある本丸跡や南城跡の石垣の一部は当時の姿を残しています。土櫓や物見櫓、帯廊、四つ目堀等、要塞としての唐沢山城をうかがい知ることができます。
平安時代の末から佐野庄を統治した佐野氏が築いた唐沢山城は、標高242mの急峻な山頂を本丸とした広範囲な城造りの跡が今も残り、その面積は194haにのぼる大規模な山城です。藤原秀郷が天慶5年(942年)に築いたと伝えられ、秀郷の子孫5代が鎮守府将軍として唐沢山城に居城し、関東一円に勢威を奮ったと伝えられています。山頂には藤原秀郷を祀った唐澤山神社が建ち、近くの見晴らし小屋からは関東平野を一望する雄大な眺望が楽しめます。
天明鋳物(てんみょういもの)の起源は平安時代。河内国(現大阪府堺市付近)から5人の鋳物師が移住し、藤原秀郷の命で武具を鋳造したのが始まりと伝えられ室町時代から江戸時代初期に最盛期を迎えました。特に茶の湯釡は「西の芦屋に東の天明」と言われ、千利休・豊臣秀吉・徳川家康など名立たる偉人達が愛した、佐野市が誇る名品。市内には天明鋳物の鋳造所、仏像、大鐘、モニュメントなどが点在し、千年の歴史と伝統の技法を今に伝えています。
佐野市富士町1409 ☎︎0283-24-1138
平将門の乱の平定や「むかで退治」の伝説でも知られる平安時代に活躍した武将、藤原秀郷公(俵藤太)が築城したといわれる唐沢山城跡は、上杉謙信の侵攻を幾度となく撃退したといわれる戦国時代の堅牢な高石垣がそのままの残る国指定史跡です。関東七名城の一つにも数えられ、山頂からの関東平野の眺望はまさに絶景です。唐沢山山頂の本丸跡には、この地に城を構えたという藤原秀郷公を祀った唐澤山神社があります。境内では四季折々の草木を楽しむことができ、春のツツジや秋の紅葉が見ごろを迎えると、さらに美しい景観となります。
佐野市富士町1007
藤原秀郷公が天慶5年(942年)に安芸国厳島大明神を、唐沢山の天徳丸に勧請しました。本殿の壁には、「竹林の七賢」の彫刻があります。唐沢山城築城の際、厳島大明神に祈願したところ、その霊夢により掘ると水が湧き出たという伝説もあります。(大炊井戸)
佐野市若松町504
別名春日岡城ともいわれ、延暦元年(782年)藤原藤成がここに館を設け、春日明神を祀ったと伝えられています。慶長7年(1602年)唐沢城主佐野信吉は幕府の山城禁止の命によりここに移ったといわれています。遺跡は連郭式の平山城で、現在では空堀の内堀と水堀の外堀の一部が残っています。
「銅製鳥居」国認定重要美術品「本殿」県指定文化財
佐野市田沼町1404 ☎︎0283-62-0306
一瓶塚稲荷神社の前身は、藤原秀郷公が天慶5年(942年)に創立した五社稲荷の一つで、当初は、唐沢山城南の富士村にあったとされています。文治2年(1186年)に、佐野成俊が唐沢山城を再興した際に、城の後口に固めに塚を築き、社殿が創建されました。
佐野市出流原町1262磯山弁財天観光協会(ホテル一乃館) ☎︎0283-25-0228
天暦2年(948年)に藤原秀郷公が創建したと伝えられています。三層楼舞台造りの弁天堂が特徴です。
市指定史跡 佐野市新吉水町254
秀郷公は、正暦2年(991年)に没し、東明寺に葬られたといわれていますが、廃寺となり宝永2年(1705年)地元有志により田原八幡が建てられました。
佐野市戸室町1524
佐野市仙波町2444
佐野市栃本町2857
佐野市大栗町127
佐野市金井上町2233
佐野市天明町2229